秋の訪れと死について
平和や愛について学んだり、何らかの活動をする時に具体的な「死」から目を反らしたり、無視している間は宇宙を動かす力にはなり得ないように思い始めました。具体的なとは、観念的な美化された「死」ではなく、肉体の機能停止、崩壊、消滅と言うことです。
身体を肉体と表現する意味が、ある本を読んで実感することができました。
今の日本は直接の死を見る機会が極端に少なくなったという面では、たいへん不幸な時代です。少し前までは、老人が家で死を迎えるのはごく自然な出来事でした。孫達は爺ちゃん、婆ちゃんの死体を直に見たり触ったりして、何らかの形で手伝わされるのが
あたりまえでした。 最初は興味本位で手が伸びたのですが、日本人の死に対する考え方が如実に伝わってきました。日本人以外の犠牲者の遺族に、遺体の処置をどうするかと問い合わせた時、いかに日本人と考え方が違うかというレポートを読み進んでいくうちに、今回のニューヨークテロ事件が重なってきました。 日本人の死に対する認識はアニミズムの段階から一歩も進んでいないように本からは読み取れます。但し、それが遅れていると言う言葉では片付けられない何かも感じます。記述は吐き気を催しそうな強烈な場面の連続ですが、「心と身体と魂」と言う人間の三要素を理解する上で参考になりました。 ちなみに自分の事を言えば、父はシベリアの捕虜収容所で病死しましたが、戦後3〜4年経って死亡公告が一枚来たっきりです。(享年29歳) 結論として何を言いたいのか自分でも分かりませんが、物、地位、肩書き、お金、肉体等々、いつかは消えて無くなるものに過度に執着しないと言う、日本人が本来持っていた無常観を取り戻す事が大切かなと思います。何か騒ぎがあるたびに誰かが犠牲になる(お肉屋さん、カイワレ大根栽培業者等々)ような現状は困りものです。 |