秋の訪れと死について

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墜落遺体表紙

 平和や愛について学んだり、何らかの活動をする時に具体的な「死」から目を反らしたり、無視している間は宇宙を動かす力にはなり得ないように思い始めました。具体的なとは、観念的な美化された「死」ではなく、肉体の機能停止、崩壊、消滅と言うことです。 身体を肉体と表現する意味が、ある本を読んで実感することができました。  

 今の日本は直接の死を見る機会が極端に少なくなったという面では、たいへん不幸な時代です。少し前までは、老人が家で死を迎えるのはごく自然な出来事でした。孫達は爺ちゃん、婆ちゃんの死体を直に見たり触ったりして、何らかの形で手伝わされるのが あたりまえでした。
(最初の間、子供は追い払われるのが常ですが)
 集中治療室で緩慢な死を迎えるのではなく、「あれ!お婆ちゃん何処に行ったの?」と誰かが気が付いたら便所で死んでいたと言うのがごく日常的な出来事だったのです。

 先日、映画「陰陽師」を観に行った待ち時間に買った本が今回の文章のきっかけです。飯塚訓「墜落遺体」講談社+α文庫680円です。けっして高邁な内容ではありません、副題はー御巣鷹山の日航機123便ーです遺体の身元確認の責任者として捜査にあたった警察官の手記です。 

 最初は興味本位で手が伸びたのですが、日本人の死に対する考え方が如実に伝わってきました。日本人以外の犠牲者の遺族に、遺体の処置をどうするかと問い合わせた時、いかに日本人と考え方が違うかというレポートを読み進んでいくうちに、今回のニューヨークテロ事件が重なってきました。

 日本人の死に対する認識はアニミズムの段階から一歩も進んでいないように本からは読み取れます。但し、それが遅れていると言う言葉では片付けられない何かも感じます。記述は吐き気を催しそうな強烈な場面の連続ですが、「心と身体と魂」と言う人間の三要素を理解する上で参考になりました。

 ちなみに自分の事を言えば、父はシベリアの捕虜収容所で病死しましたが、戦後3〜4年経って死亡公告が一枚来たっきりです。(享年29歳)
満州国が無くなるのは早くに分かっていましたので、父は日本に帰ってプロの写真家になるつもりで、ハルピンや大連で撮った写真を祖母の元に送り届けていました。ところが東京オリンピックの年に家が全焼して全て灰になりました。だから父が残したのは、今ここでパソコンのキーを叩いている私と言う存在だけです。それこそ最高のプレゼントです!!

 健康に対しての異常なまでの執着や、狂牛病騒ぎに見られる過敏な反応は、死についてまともに考える事を避けてきた社会が作り出した集合意識なのでしょうか。「これは肉を食べるなと言うサムシンググレートからのメッセージだ」等と言う人もいますが、すんなりとは同意できません。
 結論として何を言いたいのか自分でも分かりませんが、物、地位、肩書き、お金、肉体等々、いつかは消えて無くなるものに過度に執着しないと言う、日本人が本来持っていた無常観を取り戻す事が大切かなと思います。何か騒ぎがあるたびに誰かが犠牲になる(お肉屋さん、カイワレ大根栽培業者等々)ような現状は困りものです。  

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