エルトゥールル
号の遭難

〜生命の光から〜

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遭難現場
和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。

「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と岩に打ちつける波の音以外は、もう何も聞こえなかった。

この時、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように風と波の力でどんどん近づいてくる。あぶない! 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。

ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。また ある者は真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。

そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。「息子よ、起きなさい」

懐かしい母が耳元で囁いているようだった。「お母さん」 という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。

四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。

「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。「あなたのお国はどこですか」 「・・・・・・」 言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。「この乗組員たちを救うには人手が要る」 傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。「樫野の人たちに知らせよう」灯台からいちばん近い樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。

人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。

「息があるぞ!」だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい 生活だ。

ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう!」一人の婦人が言う。 「にわとりが残っている」 「でも、これを食べてしまったら・・・・・」

「お天とうさまが、守ってくださるよ」 女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。この遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。

明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。

その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかっ た。世界各国は自国の救援機を出して救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

あとがき
上のおはなしは、枝廣淳子さんのEnviro-Newsに転載されたものです。転載自由ということで、孫々転載させていただきました。

あとがき2
 2〜3回串本沖の大島で潜った事があります。特に記憶に残るような海中風景ではありませんでした。ダイビングツアーの常で、陸の観光をする時間がないままに大島を後にしましたのでエルトゥールル号の事は知りませんでした。トルコ航空機の事も新聞の片隅に載ったのかもしれませんが全く知りませんでした。今は最悪の時だ、10年経ったら皆の意識が変わって素晴らしい社会になる・・・・繰り返し誰かが言い出します。そうじゃないように感じ始めました。

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