1997年11月
福島の温泉で行われたルンル

力を緩めることで、私たちは本来の
意識に気付くことができる

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【理性とは別の意識がある】
人間の意識のことを考えているときに、学生時代のある体験を思い出しました。大学の寮で新入生の歓迎コンパがあり、消灯後に先輩達の後をついて私も抜け出しました。五階建ての建物でしたが、二階からひさしをつたって下りていくと、表通りにそのまま出られるのです。先輩たちがそこを飛び降りていく後を追って私も飛び降りたのですが、そしたらひさしがない。そのままスーッと落ちていくではありませんか。これはもうどうにもこうにも避けられず、そのまま落ちていくしかありません。下は地下一階までありましたから、そこから落ちると三階から落ちたのと同じくらいです。下はコンクリートで、運悪く頭を打てば命がないなと思いました。 じゃあなんとかしようと、落ちていくその間にいろいろ考えました。このまま落ちたら怪我をするけれども、タイミングを計って足が地面につくときに、脚をバネにして立てばおそらく大丈夫だろうということで、落ちながら姿勢を直して、「一、二、三、ハイ」とやったら、何とそのままポンと立つんです。足の裏はビーンと痺れてしまいましたが、そ知らぬ顔をして先輩の後をついて飲みにいきました。そのことを思い返したとき、人間の意識というのはとんでもないということに気付きました。 私たちは日常的にふつう使っている意識が意識だと思っていますが、じつはそうではない意識が働いているのです。いつも働きたいのですが、理性的に働く意識のおかげで、本来の意識が働けないでいる。けれど、落ちるといったような絶体絶命のときには、理性もへったくれもありませんから、生き残るためにあらゆる意識を総動員します。すると自然にそれが働き出します。その出来事は、私たちのなかには信じられないほどの力があるということを教えてくれたのです。それにようやく気付いたのは、ほんの十年くらい前のことです。それまでは、皆はちゃんとひさしの上に降りているのに、私だけ飛び越えて落下するなんて、何と運が悪いと思っていたのですが、そのおかげで、何らかのものに気付かせていただいたわけです。それに気付いてから私のやってることが変わってきました。私たちが普段思っている意識というのは、本来の意識からすれば、太陽系のなかの地球ほどの大きさもないのではないかと思います。 では、それをどうしたら日常のなかで使えるか、普段の意識として使えるか、ということを探しました。あのときはどういう状態だったのかということを考えてみますと、じつは力が抜けているんですね。緊張感がないんです。そしてパニックになっていなかった。普通だったらバタバタして頭から落ちるところを、自分でできると思った途端、その現状を受け入れたまま、自分のもっているものを総動員して解決できるということを教えてもらいました。そのことがいま私がやっていることにつながっています。力を抜くということさえすれば、私たちが今までたいへんだと思ってきたことが、いとも簡単にできる。本を読むということで、それを皆さま方にお気付きいただくというのが、私のやってるルンルの速読です。
【本のなかには宇宙がある】
私たちは本というのはふだん理性の現われだと思っています。論理的にものごとを説明するために言葉を使います。その言葉を文字に換えているのが本ですから、そこには理性的な意識の働きが強く現われているのですが、じつは本が文字で表現されているのはほんのわずかで、その底にはとてつもないものがあるのです。これはなんと説明したらいいでしょうか。まず本の形。ふつうは長方形ですね。片方が閉じられ、片方は開くようになっています。ところがそれを開きますと、パラパラとやってみていただくとわかりますが、形が変わって半円形になります。中国の考え方では四角い平面は大地を表し、半円形に広がるものは宇宙を表します。本はその宇宙を含んでいるものですから、「本」と名付けたんですね。ですから本の中には、宇宙そのものが表されているといっても過言ではありません。そして一冊の本の中には、おそらく一万冊以上に匹敵するものが込められているのです。本は日常的にいくらでも手に入りますから、一生の間に何百冊、何千冊あるいは何万冊もの本を読む方がいらっしゃいます。しかし千年ほど前になりますと、本を手にすることができる人は稀でした。 ましてその一冊の本を研究し尽くすという人は本当にわずかしかいませんでした。 私たちから見たら一冊しか読んでいないから、たいしたことはないと思うのですけれども、彼らは途轍もなく知っています。しかもただ単に知識としてではなく、知恵というか、自分の経験してないことを知ることができる程にまでに、それらを自分のものにしています。それは何なのかというのを常々疑問に思っていたのです。そこで本を読むときに力を抜くということを付け加えてみました。すると本の姿が印刷してある文字だけではなくて、そこに印刷されていない途轍もないものがあるということに気付いたんですね。どうして本を眺めているだけで力が抜けるのかといいますと、本の中には言葉では表わしきれないたくさんのものがあります。それを私たちはまったく気付いていないのですが、自然にそれを受け取ろうとしています。たくさんのものが押し寄せてきますから、最初は理性をフルに働かせて一生懸命受け取ろうとするのですが、追い付きません。追い付かなくなってしまうと、理性には限界がありますから、「もういい」と自分の働きを止めてしまいます。その状態が寝るという状態です。私の速読をやっているときに皆寝てしまうというのは、そのためです。理性が休むと言葉の動きがなくなります。言葉の動きがなくなると、自分が今どうしているか説明できなくなってしまう。何もなくなってしまうから、寝ているとしか言いようがないのです。ところがじつは意識はちゃんと働いているんです。そういう状態で「あるものがある」ということに気付くことができます。これは名付けようがないので「あるもの」としか言えませんけれど、あるものがある。これは例えば、瞑想をしたり禅をしたりヨーガをしたりしている人たちは、気が付いていらしゃる方々がたくさんいると思います。私たちのなかには何かが確かにある。その表現のしようがない、あるものが働いているんだということに、寝ている間に気付きます。
【読むことは生活全般を読むこと】 
一度それに気付いたら、今度は理性の力が戻っても、今までのようにきっちりとは締め付けなくなって、そのあるものと少しずつ一緒に働き出しますから、私たちの意識の幅は広がります。そういうことを繰り返していくうちに、ちょっと矛盾した言い方になるかもしれませんが、寝ながら起きているという意識の状態を、自分で作り出せるようになります。そういうものを私たちはおそらく今まで、超意識とか、もっと広げて宇宙意識というふうに名付けていたのではないかと思います。そうしますと、ただ一冊の本を読んだだけで、森羅万象すべてのことにつながる何かに気付いていただけるようになります。宇宙というのは私たちのずっと遥か彼方、遠くにあるとばかり思っていますけれど、私たちは宇宙の真っ只中に生きていますから、私たちの中に宇宙はそのままあるのです。私たち自身が宇宙そのものですから、そのことに気付いていないだけです。そして、私たちが理性の意識に目覚めてしまったために、なくしてしまったものがたくさんあります。たとえば赤ちゃんを見たら、私たち自身は力が抜けてしまいます。無条件に可愛いと思うじゃないですか。そんなふうな状態は論理で説明できませんし、そういうことができる能力は大人にはありません。大人でありながらそういうふうにできたら、おそらく何もしなくてもすべてがうまくいくはずなんです。その状態をこの速読を通して再現する。私たちがいままで経験したことをすべて確信に戻してしまうという働きを、本というのは持っているんです。私のやっていることを速読というふうに申し上げて、ほとんどの方々が本を速く読むことだと理解しているのが一般的です。ところが、速読というのは本を読むだけではないのだということにも、お気付きいただけるようになります。読むということは、じつは私たちが意識を持ちはじめたときに既にしていたことです。人間に限らず私たちが、数十億年も生物として連綿と経験してきたその意識ができたときから、あるいは生物になる前にも意識として存在していましたから、そういう意識と意識のふれあいというものを、すべて読むというふうに表現していいと思うのです。私たちがこの生きていることすべてが、「読む」ということで出来上がっていると私は判断してますから、速読というものも、本を速く読むということに限らず、私たちの生活全般を読むことでもあります。
理想的な死に方なんてありません】
じつは、理想的な死に方なんていうものはありません。死に方というのは、私たちの生き方がそれぞれであるのと同じように、こういう死に方がよくて、こういう死に方がまずい、というのはいっさいありません。少し前に亡くなりましたが、あるピアニストがいました。八十頃を越えてもなお、この方の奏でる音色は、かすかな音までも光輝いていました。ピアノを弾く姿を見ていると、すさまじい願いを叶える力を持っている。そしてあるコンサートを催し、その演奏は全員が涙を流すといってもいいほどで、しかも涙を流しているのを気付かないほどの状態でした。演奏が終わって、何度かカーテンコールがあり、ピアニストは舞台の袖に戻ってきて、ニッコリ笑って椅子に腰掛けたまま、気付くと亡くなっていました。もうひとりは、皆さんご存知の「あしたのジョー」。彼が最後の時、それこそ相手のチャンピオンと、一瞬で髪の毛が真っ白になるほどすさまじい戦いを終えてコーナーに戻り、レフリーの判定を待つ間に、フッと軽い微笑みを浮かべたまま死にましたね。両方ともおそらく自分が命をなくす、決して死ぬということに気付いていませんでした。私たちは生きている間に、自分の死に方を考えるような無駄な時間を費やす必要はありません。そんなことよりもいま、自分がしていることを百パーセント全力を出し切ってやるだけです。死に方がいかようなものであれ、それこそ大往生です。いま、現在、自分の持っているものをそのまま発揮し、全力を尽くして、過去にとらわれることなく、また未来を患うこともなく、ますますうれしく楽しく生き抜くこと、それがすべてです。そういうとき私たちは、自分で作り上げた限界という枠組みを忘れてしまい、自分の持っているものをそのまま出すことができます。自分の過去が誰であれ、何をしていたか、そんなことは今の自分に何の役にも立ちません。まして、自分がこの世を去るときに、その先の世界のことまで必要ありません。何の未練もなく、このまま宇宙の藻屑となっていく。いまを大切にするために、たくさんのものを大事にしているその力を見極め、ご自分にほんとうに必要なもの以外はどんどん放つことです。そうしたら自分でもびっくり仰天するほど身軽になります。人間はもうこれ以上力がゆるまない、そう感じるところ、そこがじつは力を緩めていく出発点です。いまだかつて想像もしたことしたことないような、途轍もないものに近付いていく。それはいままでどなたも本に書いていません。体験する以外ありません。言葉もなければ時間も空間もない。私たちが当たり前だと思っている、この世界とはちょっと違う世界です。それを一人一人が、ご自分で気付き、感じていただきたいのです。
プロフィール  植原紘治
1940年新潟県生まれ。86年隗塾開設。
88年通信工学とスピードランニングの権威、関英男工学博士とともに
加速学園を設立。未利用の能力を100パーセント活かす速読法をつくる。
現在全国で「ルンルの会」を開設。

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