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例えば、四国に小さな学習塾があります。 そこの塾を経営していらっしやる方も、私のルン・ルの会員さんです。 もうそれこそ、四国一というよりも、全国でも指折りの英語の達人と言ってもいいと思います。
やっていることは、ものすごく緻密できちんとした授業でした。生徒達の評判もよかった。 しかも、そこから旅立って大学に行くときには、びっくり仰天するような大学に次々に
合格していきます。やっているのは英語しか教えていません。英語1科目ですね。 その方が、私の会に入って参りまして、生徒さんと接する接し方、英語を教えるときには
どういうふうに伝えて行ったらいいかということに対して、かなりの変化が起こってきたそうです。 今まで懇切丁寧に教えていた。その懇切丁寧に教えるということを手放しました。
教えない。 授業をするのではなくて、 たった1冊その冊子を眺めるともなく眺める。それこそびっしり、老眼の人なんか読めないような 細かい字がぎっしり詰まっています。それをただこうやってパラパラと眺めているだけなんです。 その生徒達の凄まじさは、その冊子がボロボロになってしまう。 明けても暮れてもただこうやってパラパラとやっているだけ。 内容をそれによって汲み取ろうとしたり、理解しようとするのではなく、ただパラパラやって 眺めているだけで、先ほど言いましたように、この本の中から宇宙が立ち現れてくるんです。 それはそこに書いてある、文字としての情報だけではなくて、その塾長さんが数十年かかって 培ってきたものが中に詰まっています。それと同時に、その塾長さんが知らない英語の宇宙、 さらにその英語から発していく、もっともっと広いものに触れることができるんですね。 しかし、ではどうして英語だけしかやっていないのに、数学までできるようになるのか。 それは当たり前のことです。英語というのはものすごく論理的な言葉ですから、 英語ができるようになるということは、論理的な意識の働きが加速されていきます。数学についても、何もしなくてもちゃんとできるようになる。 数学ができるようになるということは、理科だって同じです。 では、国語、日本語は論理的ではないのかというと、ちゃんと日本人は日本人の論理を 持っていますから、日本人的な論理の働かせ方も得意になっていく。 社会科、日本史とか世界史とかですね、倫理、政治、そういうものも、私たちの論理的な 頭の働きの中に入ってしまいますから、いとも簡単にその能力は拡大していってしまうんです。 |